◆貫泰夫さんの見解 -2-
(阿久悠)
数多くの曲を残し、8月1日世を去りましたが、曲の全てが『流行歌』という観念ではなかったか。世の中の流れ、流行、人気というものが阿久悠の頭の中に充満していたのでは。ターゲットを絞り込むことなく、"誰でもが口ずさめる"をモットーにしていた。ピンク・レディーの曲も幼児から老人まで口ずさめるをモットーに 書いたと思う。
(都倉俊一)
年はまだ若かったが、ヒット曲も多く、ベテランの域に達していた。
阿久悠の遊び心いっぱいの『ペッパー警部』とオーソドックスな『乾杯お嬢さん』にピッタリのサウンドをつけた。
(飯田久彦)
2曲を渡され、飯田久彦にはデビュー曲として『ペッパー警部』については迷いはなかったそうだ。振り付けを土居甫に依頼、例の股開きの振り付け完成。
ビクターは喧々諤々、飯田久彦が押し切ってデビュー曲に決定。
(土居甫)
よくもあんな振り付けを考案したものだ。土居甫もデビュー曲として『ペッパー警部』に強烈にこだわった1人でした。
『ペッパー警部』と『乾杯お嬢さん』とでは大違い、『乾杯・・・』が選択されていたなら、どんなピンク・レディーになっていただろう。
その後土居甫は『S・O・S』『カルメン'77』『渚のシンドバッド』『ウォンテッド』『UFO』『サウスポー』『モンスター』『透明人間』と立て続けに振り付けの大ヒット。
10曲目の『カメレオン・アーミー』で土居ワールド完成か。
(野口庸子)
相馬との縁で1976年10月からスタッフに参加。以降解散まで全衣装を担当、衣装もさることながら靴に至るまで、今で言うスタイリストも兼ねていたようなもの。
スパンコールをちりばめたキラキラ衣装はファンの目を虜にした。
(相馬一比古)
根っからの芸能界の男。進駐軍から発生した戦後の音楽を熟知していた。
洋楽志向の強い男だった。ステージでは洋楽を多く取り入れ、見事なコンサートを展開した。
直接スタッフが創りだしたものをマネージメント・プロモートするのがT&Cの役割。
1976年11月頃からテレビ出演の依頼が多くなり、やがて需要過多で裁ききれない状況、コマーシャルも次々に依頼があり、どこのチャンネルをひねってもピンク・レディーが見れる。新聞雑誌の取材も数多く、スケジュール帳は真っ黒。
我々が策したものではなく、露出過剰は必然的なことであった。
今考えると露出過剰がピンク・レディーをモンスターにしたと思う。
一方キャラクターグッズでは業界で初めて広範囲に発生したアーチストだった。
グッズも文房具など比較的低価格のものが多く、幼児が好むものが多かった。
このことはファン層の低年齢化に拍車をかけた。
イベントも打ち続けた。デビュー7ヶ月で初コンサート、即ツアー開始、1年弱で田園コロシアムでの野外コンサート、その後武道館、ラスベガス、後楽園など。
コンサートは生のピンク・レディーを見せる、ファンとの直接のふれあいの場なので特に力を入れた。
ピンク・レディーは『視聴覚』アーチストである。単に音だけでなく、振り付けも衣装も目に入る。
音を聴いて楽しい、衣装を見るのも楽しい、ミーケイの振り付けを見るのも楽しい、自分が踊ってなお楽しい。
今もファンの人たちはミーケイの声を聴きながら、思い思いの衣装を着て踊っている。
ファンの人たちはミーケイに今も熱い声援を送っている。
まさに彼らにとって、ミーケイの存在は文字通りIDOL(偶像)、偶像崇拝の域に達している。
昔の関係者としてはありがたいことです。
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